「日々自分の十字架を負って
―祈りの世界の魂のあり方から現実の実際的な生き方へ―」
(ルカの福音書9章23-25節)
メッセンジャー:小笠原 孝師
9/13 2020
レジュメ
Ⅰ 前回のメッセージの要点
1.主との透明な関係で交わるところ迄謙るには十字架の許に行くこと
◇「主よ。 その通りです」(マルコ 7:28 )あの十字架は私のためのものです
◇主の十字架の徹底した審きへの絶対的服従
2.「でも、食卓の下の小犬でも・・・」
◇主の十字架の徹底した恩寵への絶対的信頼
Ⅱ しかし祈りの世界における魂のあり方だけでなく、現実生活における私たちの実際的な生き方にもこのことが直結している(ルカ9:23)
1.「皆に言われた」 特別な人にではない
2.イエスさまを信じ救われた人は誰でもイエスについて行きたい
3.「自分を捨て」=主の十字架の徹底した審きへの絶対的服従
◇自分のどうにもならない自我の罪、みにくい肉の罪のため、
主が私のために、私の代りに、私と共に十字架にかかって審かれ死なれた
◇このことを御霊の光の中で絶対的に信従する時、「自分を捨て」という言が成就する
◇ここでの落し穴は自分を捨てる自分がなくなるとして怖れてできないこと
◇しかし、そこには「わたしに従ってきなさい」という主がおられる
◇その主は神の像に似せて造られた私が帰るべき本来の私
(Ⅱコリント3:18 、ガラテヤ 2:19b 20a 、ピリピ 1: 21)
◇自分を捨てることは自分を失うことと反対に本当の自分を得ること(24,25)
4.「日々自分の十字架を負って」
◇イエスさまと私とが一つになる秘義
◇世界に一つしかない栄光の十字架を自分の十字架と呼べる
◇この十字架は二つの面から見られる。二つの意味を持つ。徹底した審きと徹底した恩寵
◇もっと大きく受け取るべき自分の十字架は主の恩寵の十字架、ゆるしの十字架、
贖いの十字架、愛の十字架→マタイ 11:28‐30 (次回)
(イザヤ 43:1 b 、レビ 17:11 、Ⅰヨハネ 3:16)
み言葉
マルコ7:28
28彼女は答えた。「主よ。食卓の下の小犬でも、子どもたちのパン屑はいただきます。」
ガラテヤ2:19b-20a
19b 私はキリストとともに十字架につけられました。
20a もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。
Ⅱコリント3:18
18私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。
ピリピ1:21
21私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。
イザヤ43:1b
1b 「恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたは、わたしのもの。」
レビ17:11
11実に、肉のいのちは血の中にある。わたしは、祭壇の上であなたがたのたましいのために宥めを行うよう、これをあなたがたに与えた。いのちとして宥めを行うのは血である。
Ⅰヨハネ3:16
16キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。